2000年1月17日(月)

[阪神大震災]
今日は阪神大震災から5年。震災関連テレビいまだにあまり見る気がおこらないので細かい原因、対策などには詳しくありません。

当時の僕は大阪に住んでいましたが、実家が神戸市兵庫区で全壊しました。実家は震災のテレビで良く取り上げられる長田区菅原市場から500Mといった場所です。震災当日大阪では状況が全く分からず断片的に高速道路、ビルが倒壊しているといった事しかわかりませんでした。電話も通じません。テレビ中継が始まってみると実家から300M先位の中山病院から火の手が上がっていました。
昼頃事務所に親父から電話があり実家全壊との事。
取りあえず電車で向かおうと大阪駅まで行きましたが当然不通でした。

夜神戸からバイクで帰ってきた友人からの情報によると実家から100M先の地下鉄大開駅が陥没しているとのこと。テレビでは新開地から長田まで火の手がもうもうと西へ向かっています。

僕が神戸に向かったのは次の日18日。バイクをかりて出発。幹線道路「中央環状線」は大阪守口から大渋滞。全国各地から集まった自衛隊、消防車、救急車が渋滞で身動きできません。171号線を抜けて国道2号線へ。

西宮付近は壊滅状態でした。車は通行止めでしたがバイクで無理矢理走行。多くの人が東へ東へ徒歩で大阪方面へ歩いています。
かなりの道が通行止め、なんとか抜け道を通って魚崎周辺まで来ると人が全くいない。後で知りましたがガスタンクが爆発する危険があると避難勧告が出されていました。
神戸の中心地三宮周辺を抜け多聞通を西に、三宮は壊滅、不思議と神戸駅周辺は大丈夫でした。
実家周辺についたのは夜。危うく陥没した地下鉄大開駅に落ちそうに。
実家は大通りから中に入らないと着けないのですがほとんどの道が倒壊した住宅で通れません。あきらめて避難場所水木小学校へ。なんとか両親と会えました。

その後母を実家に帰し、水木小学校に1週間ほどいましたが自分の中では夢の中のように現実感のない日々でした。実際にそこにいてもまるで映画のなかのようです。

実家の再建まで色々あって3年かかりましたがなんとか今は家が立ちました。もしもっといい耐震設計の家を建てていたら。全壊しなかったかもしれません。しかし隣の家から火が回ってきたらどうしようもなかったでしょう。
消防署の人は水の出ないホースを持ってなんとかしようとしていました。周りの人は「なんもできへんのか!!」と消防署の人に怒鳴っています。
しかし消防署の人の家はどうなっていたのでしょうか。
お金の問題も沢山でました。人の経済事情まで自分に関係してきます。ボランティアの人が沢山来てくれましたが決して足りていたとは言えません。ボランティアの人がいい気持ちで帰ってくれたのかもなんとも言えません。
あのとき体験した様々なことはいまだに自分の中で消化できていません。

あの時僕は何もできませんでした。
あの地震の後もトルコや台湾で大きな地震がおこっています。もっと土木技術が開発されていたら、もっと建築技術が利用されていれば結果は違った物だったかもしれません。少しでも建設技術の開発、活用に自分の力が貸せたらと思っています。

2000年1月14日(金)>>

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